月岡芳年 つきおかよしとし
天保10年3月17日(1839年4月30日)
- 明治25年(1892年6月9日)
001鹿児嶋征討記之内 高瀬口河通ノ戦争野津公聯隊旗を取返ス図
004鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争之図〔野津大佐軍旗を奪還す〕
011薩州鹿児島征討記之内 〔賊軍新政厚徳の旗を押立て進軍の図〕
016明治小史年間紀事 鹿児島県下賊徒蜂起之事件〔鹿児島港口弾薬製造所の弾薬を掠奪せんとす
D109薩州鹿児島討伐記ノ内 県下之兇賊等肥後熊本旧城下江攻撃シ官軍応戦之図
u001〔鹿児島戦争記 野津大佐軍旗奪還之図〕インターネット非公開
S038薩州鹿児島征討記之内縣下ノ兇賊等肥後熊本旧城下江攻撃シ官軍應戰之圖
写真は「ウィキペディア日本語版」2005年6月11日(土)00:51の版 よりhttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Yositosi.jpg
幕末から明治前期にかけての浮世絵師である。姓は吉岡、後に月岡、本名は米次郎。一魁斎芳年、魁斎、玉桜楼、咀華亭、子英と号し、後に大蘇芳年(たいそよしとし)と号した。
歴史絵や美人画、役者絵などの浮世絵を主に手がける。特に無惨絵で知られ「狂画家」「血まみれ芳年」などと呼ばれていたが、各分野で独特の画風がある。また当時、没落していく浮世絵師の中で最も成功し、門下からは日本画・洋画で活躍する画家を多く輩出したこともあり「最後の浮世絵師」と評価されることもある。河鍋暁斎とは、ともに歌川国芳に師事した兄弟弟子。
天保10年(1839年)、江戸新橋南大阪町(武州豊島郡大久保の説有り)の商家である吉岡兵部の次男・米次郎として生まれる。のちに、京都の画家の家である月岡家・月岡雪斎の養子となる(自称の説有り、他に父のいとこ薬種京屋織三郎の養子となったのち、初めに松月という四條派の絵師についていたがこれでは売れないと見限り歌川国芳に入門したという話もある)。
嘉永3年(1850年)、12歳で歌川国芳に入門(1849年説あり)。武者絵や役者絵などを手掛ける。
嘉永6年(1853年)、15歳のときに『画本実語教童子教余師』に吉岡芳年の名で最初の挿絵を書く。同年錦絵初作品「文治元年平家一門海中落入図」を一魁斎芳年の号でを発表。
慶応元年(1865年)に祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承した。
慶応2年(1866年)12月から慶応3年(1867年)6月にかけて、兄弟子の落合芳幾と競作で『英名二十八衆句』を表す。これは歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描く。一連の血なまぐさい作品のなかでも、殊に凄まじいものであった。明治元年(1868年)、『魁題百撰相』を描く。これは彰義隊と官軍の実際の戦いを弟子の年景とともに取材した作品である。続いて明治2年(1869年)頃までに『東錦浮世稿談』などを発表する。
明治3年(1870年)ごろから神経衰弱に陥り、極めて作品数が少なくなる。
明治5年(1872年)、自信作であった『一魁随筆』のシリーズがかんばしくなくショックを受け、そして強度の精神衰弱に陥る。翌年には立ち直り、新しい蘇りを意図して号を「大蘇」に変える。また、従来の浮世絵に飽き足らずに、菊池容斎の画風や洋風画などを研究、本格的な画技を伸ばすことに努めた。
明治7年(1874年)、6枚つながりの錦絵『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表。芳幾の新聞錦絵に刺激を受け、明治8年(1875年)、『郵便報知新聞錦絵』を開始。これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの。
明治10年(1877年)に西南戦争が勃発し西南戦争の錦絵が盛んになる。実際に取材に行ったわけではないが、想像で西南戦争などを描いた。
明治11年(1878年)には天皇の侍女を描いた『美立七曜星』が問題になる。
明治12年(1879年)、宮永町に移転し手伝いに来ていた坂巻婦人の娘・坂巻泰と出会う。
明治15年(1882年)、絵入自由新聞に月給百円の高給で入社するが明治17年(1884年)に自由灯に挿絵を描いたことで絵入自由新聞と問題になる。また読売新聞にも挿絵を描く。
明治16年(1883年)、「根津花やしき大松楼」に描かれている幻太夫との関係も生じるが別れ明治17年(1884年)、泰と正式に結婚する。
明治18年(1885年)、代表作「奥州安達が原ひとつ家の図」などによって「東京流行細見記」(絵師の人気番付)で一番になる。この頃から縦2枚続の歴史画、物語絵などの旺盛な制作により新風を起こし、門人も80名を越していた。
その後、『大日本名将鑑』『大日本史略図会』『新柳二十四時』『風俗三十二相』『月百姿』『新撰東錦絵』などを出し、自己の世界を広げて浮世絵色の脱した作品を作るが、それに危機を覚えてか本画家としても活躍しだす。『月百姿』のシリーズは芳年の歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作に挙げられる。また、弟子たちを他の画家に送り込んでさまざまな分野で活躍させた。
晩年にあたる明治24年(1891年)、ファンタジックで怪異な作品『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から体が酒のために蝕まれていき再度神経を病み目を悪くし、脚気も患う。また、現金を盗まれるなど不運が続く。
明治25年(1892年)、新富座の絵看板を年英を助手にして製作するものの病状が悪化し、巣鴨病院に入院。病床でも絵筆を取った芳年は松川の病院に転じるが、5月21日に医師に見放され退院。6月9日、本所藤代町の仮寓で脳充血のために死亡。しかし、やまと新聞では6月10日の記事に「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある。享年54。
芳年の墓は新宿区新宿の専福寺にある。法名は大蘇院釈芳年居士。明治31年(1898年)には岡倉天心を中心とする人々によって向島百花園内に記念碑が建てられた。
江戸川乱歩・三島由紀夫などの偏愛のために「芳年といえば無惨絵」と思われがちだがその画業は幅広く、歴史絵・美人画・風俗画・古典画に渡る。近年はこれら無惨絵以外の分野でも再評価されてきている。師匠の国芳譲りの武者絵が特に秀逸である。
もともと四條派の画家に弟子入りしたためか(本人談)四條派の影響を強く受けた肉筆画も手がけている。彼自身、浮世絵だけを学ぶことをよしとしなかったため、様々な画風を学んでいる。写生を重要視している。
芳年の絵には師の国芳から受け継いだ華麗な色遣い、自在な技法が見える。しかし師匠以上に構図や技法の点で工夫が見られる。動きの瞬間をストップモーションのように止めて見せる技法は、現代のマンガや劇画に通じるものがあり、劇画の先駆者との評もある。
彼の作品は海外でのほうが評価が高いのもこのためであろう。特に「魯智深爛酔打壊五台金剛神之図」の作品のような均整の取れた東洋人離れした肉体は西洋の彫刻のようである。
芳年には歴史絵の傑作がある。『大日本史略図会』中の日本武尊、明治16年(1883年)の「藤原保昌月下弄笛図」など。明治という時代のせいか彼の描く歴史上の人物は型どおりに納まらず、近代の自意識を感じさせる。
美人画・風俗画も手がけており、『風俗三十二相』でみずみずしい女性達を描いた。
初期の作品『英名二十八衆句』(落合芳幾との共同作品)では血の表現に、染料に膠を混ぜて光らすなどの工夫をしている。この作品は一勇斎国芳の「鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたえのわざもの)」に触発されて作られた。これは芝居小屋の中の血みどろを参考にしている。 当時はこのような見世物が流行っていた。
芳年は写生を大切にしており幕末の動乱期には斬首された生首を、明治元年(1868年)の戊辰戦争では戦場の屍を弟子を連れて写生している。しかし、明治18年(1885年)に描かれた彼の代表作に「奥州安達が原ひとつ家の図」は芳年の想像力を駆使して描かれたものである。責め絵(主に女性を縛った絵)で有名な伊藤晴雨がこの絵を見、芳年が本当に妊婦を吊るしたか気になり妻の勧めで妊娠中の彼女を吊るして実験し、それを写真に収めた。その結果おかしな点があったため、芳年は写生はしていないということが判明した。その後、芳年の弟子にこのことを話すと弟子は師匠がその写真を見たら大変喜ぶだろうと答えたという。
月に対しては名前のせいもあって思い入れがあるようで月の出てくる作品が多く、『月百姿』という百枚にもおよぶ連作も手がけている。これは芳年晩年の傑作とされる。幽霊画も『幽霊之図』、『宿場女郎図』などを描いており芳年自身が女郎の幽霊を見たといわれている。
芳年は弟子に厳しかったが、同時に大変かわいがった。これからは洋画の時代だと見越し、何人もの弟子を洋画家に弟子入りさせている。そのため彼の弟子に大成した人は少なくない。
涙もろい人情家でもあり、円朝の人情話を聞いてすすり泣いたという話もある。目は大きいが怖くない人だと、当時子供であった鏑木清方には思われていた。
絵のモデルとして弟子を縛り付けているのを見た知人が驚いて助けてやってくれと頼むと「こいつは悪いことをしたので縛り付けている」と悪乗りをして言い返すという逸話があり、ユーモラスな人でもあったようである。にぎやかなお祭り好きで、話し上手でもあった。
一般的には神経衰弱にかかっていたため病んでいるようなイメージがある。それでも病の床で絵を描き続けた。
芳年の門人には水野年方、稲野年恒、右田年英、山崎年信、山田年忠、新井芳宗などがおり水野の門人に鏑木清方、池田輝方などその他多数いる。特に鏑木は子どもの頃から芳年の家に遊びに来ていた。彼らは挿絵画家や日本画家として活躍した。
また芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫、江戸川乱歩などの文士たちに愛された。
芸術家では横尾忠則が芳年の影響を受け画集を発売している。
月岡芳年2011年4月9日 (土) 08:49 UTCの版 「ウィキペディア日本語版」
http://ja.wikipedia.org/wiki/月岡芳年
No. |
タイトル |
出版日時 |
カテゴリー |
所蔵 |
版元 |
1 |
018鹿児嶋県暴徒高橋并川尻戦争ノ図 |
0000/00/00 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
大倉孫兵衞 |
2-1 |
019鹿児島両勇一騎討之図 |
0000/00/00 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
大倉孫兵衞 |
2-2 |
S036鹿児島兩勇一騎討之圖 |
0000/00/00 |
西南戦争錦絵 |
静岡県立中央図書館 |
大倉孫兵衞 |
2-3 |
S037鹿児島兩勇一騎討之圖 |
0000/00/00 |
西南戦争錦絵 |
静岡県立中央図書館 |
大倉孫兵衞 |
3 |
S025島津家英雄揃 |
1877/02/07 |
西南戦争錦絵 (集団肖像画) |
静岡県立中央図書館 |
林吉蔵 |
4-1 |
016明治小史年間紀事 鹿児島県下賊徒蜂起之事件 |
1877/00/00 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
大倉孫兵衞 |
4-2 |
S056明治小史年間紀事 |
1877/02/15 |
西南戦争錦絵 |
静岡県立中央図書館 |
大倉孫兵衞 |
4-3 |
B013明治少史年間紀事(刷A) |
1877/03/15 |
西南戦争錦絵 |
大英博物館 |
大倉孫兵衞 |
4-4 |
B013明治少史年間紀事(刷B) |
1877/00/00 |
西南戦争錦絵 |
大英博物館 |
大倉孫兵衞 |
5 |
009新聞鹿児嶋模写 |
1877/02/19 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
田村兵次郎 |
6-1 |
B008 薩州鹿児島征討記之内縣下ノ兇賊等肥後熊本旧城下江攻撃シ官軍應戰之圖 |
1877/03/03 |
西南戦争錦絵 |
大英博物館 |
熊谷庄七 |
6-2 |
D109薩州鹿児島討伐記ノ内 県下之兇賊等肥後熊本旧城下江攻撃シ官軍応戦之図 |
1877/03/03 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
熊谷庄七 |
6-3 |
S038薩州鹿児島征討記之内縣下ノ兇賊等肥後熊本旧城下江攻撃シ官軍應戰之圖 |
1877/03/03 |
西南戦争錦絵 |
静岡県立中央図書館 |
熊谷庄七 |
7 |
001鹿児嶋征討記之内 高瀬口河通ノ戦争野津公聯隊旗を取返ス図 |
1877/03/13 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
熊谷庄七 |
8 |
003鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争図第弐 |
1877/03/16 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
林吉藏 |
9-1 |
B011鹿児島征討紀聞之内熊本川尻口本営之圖 |
1877/03/19 |
西南戦争錦絵 |
大英博物館 |
森本順三郎 |
9-2 |
S035鹿児島征討紀聞之内熊本川尻口本営之図 |
1877/03/19 |
西南戦争錦絵 |
静岡県立中央図書館 |
森本順三郎 |
10 |
010鹿児嶌紀聞之内 副将村田討死之図 |
1877/03/20 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
小林鉄次郎 |
11 |
u001〔鹿児島戦争記 野津大佐軍旗奪還之図〕国会図書館の仮題 |
1877/03/20 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
大倉孫兵衛 |
12 |
013鹿児嶋記事 |
1877/03/24 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
綱嶌亀吉 |
13 |
004鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争之図 |
1877/03/26 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
林吉藏 |
14 |
011薩州鹿児島征討記之内 |
0000/03/26 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
舩津忠次郎 |
15 |
008鹿児嶋戦争畳楯図 |
1877/04/12 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
熊谷庄七 |
16 |
007鹿児島戦争記 川尻本営之図 |
1877/04/16 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
熊谷庄七 |
17 |
002鹿児嶌征討全記之内 海軍須口村上陸之図 |
1877/04/23 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
綱島亀吉 |
18 |
006鹿児島戦争図 |
1877/04/27 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
福田熊次郎 |
19 |
015鹿児島新誌内 西郷花岡山巡見 |
1877/04/00 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
植木林之助 |
20-1 |
D110薩州鹿児嶋征討記之内 賊徒之女隊勇戦之図 |
0000/05/01 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
船津忠次郎 |
20-2 |
S058薩州鹿児嶋征討記之内賊徒之女隊勇戦之図 |
1877/05/01 |
西南戦争錦絵 |
静岡県立中央図書館 |
船津忠次郎 |
21 |
005鹿児島征討内 隈川官軍賊軍戦 |
1877/05/05 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
松村甚兵衛 |
22 |
012鹿児島暴徒省像略伝 |
1877/06/00 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
森本須三郎 |
23 |
014鹿児嶋婦女子乱暴之図 |
1877/07/04 |
西南戦争錦絵 |
国会図書館 |
松村甚兵衛 |
24 |
PC005鹿児島暴徒降参之圖 |
1877/09/19 |
西南戦争錦絵 |
個人蔵 |
津田源七 |
25 |
S002鹿児島征討全記之内於城山隆盛以下最後図 |
1877/10/04 |
西南戦争錦絵 |
静岡県立中央図書館 |
森本順三郎 |
26 |
S039鹿児嶋電報雙雄血戰之圖 |
1877/11/20 |
西南戦争錦絵 |
静岡県立中央図書館 |
大倉孫兵衞 |
27 |
S019西郷隆盛霊幽冥奉書 |
1878/07/05 |
肖像画 |
静岡県立中央図書館 |
船津忠次郎 |
28 |
S018近世人物誌 第十七 西郷隆盛 |
1888/02/24 |
肖像画 |
静岡県立中央図書館 |
奥隅欣二 |
参考 |
017熊本伝報図画 |
0000/00/00 |
参考 |
国会図書館 |
大倉孫兵衞 |
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※0000は年月日不明を示す。