薩軍六・七番大隊、先鋒隊として加治木を出発
熊本城炎上
熊本城包囲
013鹿児嶋記事 〔暴徒新政厚徳の旗を押立て進軍せんとす〕 3/24
047鹿児島征討一覧 3/31
090鹿児嶋争戦一覧図絵 4/4
039鹿児島の賊軍熊本城激戦図 4/13
006鹿児島戦争図 〔熊本城下の戦〕 4/27 女武者登場
053熊本城ノ将校賊軍嘲哢之図 4/30
081鹿児島戦記 〔熊本城の戦〕 /9
御届順
薩軍は熊本城にほど近い川尻に本陣をしいた。
036鹿児島征討記 3/17
032鹿児嶋新聞 河尻本陣図 3/27
076鹿児嶋戦記 〔前原一格奮戦図〕 3/?8
073鹿児嶋征討出陣図 4/5
035鹿児嶋紀聞 4/14
007鹿児島戦争記 川尻本営之図 4/16
020鹿児島記聞 川尻本営図 4/19
023暴徒安見橋合戦 9/4
028西郷隆盛大軍ヲ引率シ肥後国熊本城ヲ陥ト安政橋ニ到所城兵モ討テ出両軍於橋上ニ大激戦ニ及之図 9/9
御届順
乃木希典少佐は軍旗を奪われてしまう。
049鹿児嶋追討記之内 高橋之戦争野津大佐隊旗ヲ奪返ス図 3/10
001鹿児嶋征討記之内 高瀬口河通ノ戦争野津公聯隊旗を取返ス図 3/13
004鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争之図〔野津大佐軍旗を奪還す〕 3/26
029高瀬口大進撃之図 3/30
御届順
吉次越の戦い
010鹿児嶌紀聞之内 副将村田討死之図 3/20
三月三日村田木葉にて戦死の記事
011薩州鹿児島征討記之内 〔賊軍新政厚徳の旗を押立て進軍の図〕 3/26
059鹿児嶋征討全記之内 〔吉次越にて官軍牛に悩まされる図〕 5/10
木留の戦い
065鹿児嶋戦記 〔木留、植木にて朝霧中の戦〕 4/12 3/25の木留攻撃の様子
山鹿方面の戦い
三浦少将山鹿口3月12日朝
034鹿児島新聞 山鹿戦争之図 4/5
077鹿児島血戦之図 〔角力畳を楯に勇戦〕 4/14 桐野が主役なので
021鹿児島戦闘記 6/22
041田原坂の大戦争 10/5
045九州植木口激戦図 /10(軍旗事件かも)
衝背軍の戦い
066鹿児嶋戦争図会 〔八代港の戦〕 3/22
038鹿児島新聞 八代口大戦争 4/14 町田啓次郎の件が主、副コマにて軍議の様子。
005鹿児島征討内 隈川官軍賊軍戦 5/5 八代口 隈川は球磨川の事だろう。
064鹿児島軍記 御船激戦之図 7/25
御届順
宮崎方面
026日向険地江暴徒引退図 5/10
091鹿児嶋征討紀聞 〔日向路にて官軍を迎え戦う賊徒〕 6/4
022佐土原城進撃之図 8/15
062日向霧嶋山激戦之図 8/22
063日向佐土原落城之図 8/22
072鹿児嶋征討紀聞 〔美々津川の戦〕 8/24
051鹿児島軍記之内 日向国高千穂之麓強婦血戦之図 8/31
069都の城戦争之図 8/ 7/24都城陥落の記事、正確。
042西南戦記 都城軍議の図 10/6
大分方面の戦い
043鹿児島新聞 豊後鶴崎戦争 5/31
騎兵隊指揮長野村忍介は、4/30に西郷隆盛の指令で大分方面に突出すべく延岡に進出する。5/13に竹田を占領。現地で報国隊を募兵し、すぐさま14日には大分鶴崎方面を攻略するが、その後政府軍の大規模な反撃にあう。激戦の後5/29には竹田が陥落。政府軍は軍艦3隻を投入して6/10には臼杵を奪還する。6/22野村率いる騎兵隊は宮崎県境を越え熊田まで後退した。
鹿児島城下
060鹿児島県下甲突川竹柵之図 〔賊徒の女軍川中の竹柵の縄を切る図〕 6/2
044鹿児島大戦争 7/11
074鹿児島新聞 太明神岡武山大戦争 7/24
0061鹿児島伝報記 甲突川戦争図 〔賊徒女軍船中にて奮戦〕 8/2
067鹿児嶋征討記聞 〔海陸より数万の官軍押寄女賊徒之を迎え討つ図〕 8/
068鹿児嶋征討記聞 〔薩海近く乗込みし官軍の艦を隆盛等遠望〕 9/19
御届順
4/23の熊本城開城を受け、4/27には川村純義が鹿児島城下に上陸、本営を設けた。
川村は城下中心部を確保しながら増援を待つ。5/3に新県令岩村通俊が赴任する。
一方薩軍は先行していた中島健彦・貴島清に別府晋介が合流し横川から鹿児島城下をめざした。
甲突川を越えて城下に突入しようとしたのは5/6のことで、官軍の激しい抵抗を受け伊敷に後退している。
5/11から13にかけては催馬楽山の薩軍と海軍軍艦龍驤との間で大規模な砲撃戦がおこなわれた。
この間の状況は鶴丸城下中心部を占領する別働第一旅団を薩軍が包囲して中心部への突入を計っている状態であり、官軍側は軍艦に援護されていた。
5/22川村は薩軍の背後を突く形で重富に部隊を上陸させる。薩軍は北方あるいは吉野方面に後退する。
5/24官軍の攻勢で涙橋・紫原方面で激戦が行われる。5/26にいたり薩軍は吉野から川上方面へ撤退した。
その後大口から宮之城をへて進軍していた川路少将率いる別働第三旅団は6/24鹿児島に入り、鹿児島上陸軍と官軍主力の連絡がつく。
西郷はこの間人吉から宮崎へと主力とともに行動しており鹿児島には現れていない。西郷ひきいる薩軍が鹿児島城下に帰ってくるのは可愛岳突破後の9月1日であり、その月の24日には西郷は自刃する事になる。