J001西南戦争図(タイトルは日本銀行金融研究所貨幣博物館による)
芳光 画 日本銀行金融研究所貨幣博物館 蔵
編輯人 池田傳兵エ 大二大區六小區◯大橋二丁目
センチニ ホリ友 同シン
上部の書き込み
能瀬弥九良 四十二年 五月五日 カゴシマニテ戦死
児玉八之進 三十二年 人吉ニテ戦死
相良◯之焏 廿七年吉次ゴエニテ戦死
森岡長右エ門四十一年川尻ニテ重傷近キ即死ス
河野四郎三十七年延岡ニテ死
中根半七廿七年一ヶ月植木ニテ戦死
中嶋武彦廿九年熊本地雷火ニテ死
松岡岩右エ門廿七年一ヶ月同
山田半左エ門三十年日◯へ走ル際死
町田梅之進六月一日山口縣下暴長弾丸ヲ蒙り死
隆盛妻登の三十八年人吉にて死
篠原國幹三月廿二日 熊本ニテ戦死
生捕ノ部
池辺吉十郎廿五年
桂衛門四十年
徳久幸治郎廿七年
石井竹之焏廿五年
椛山久兵衛五十九年
野村十良太廿二年一ヶ月
弟子丸應助廿九年
西郷一子 菊治良十七年
篠原妻 國子廿七年
斬罪
大山綱良年令不詳
その外降伏兵数萬人
賊ハ贋紙幣ヲ凡そ廿四万円余センしたるよしなるが其内十四万円ヲ流通せしといふ
種類拾銭鼠色、廿銭桃色、五十銭鼠色、壱円桃色、二円鼠色、五円黄色、十円黄色何も◯◯印にて製す
曲尺三寸二分 二寸 朱印 墨にてもやうあり
管内通寶 金五圓 朱モヤフ 軍勢所
墨ニテ模様アリ
このうら左に同じ
一寸九分
朱印 明治十年六月発行 管内通寳 朱判朱判 表
青印 此札ヲ贋造スル者ハ急度軍律二處スル者也 朱印 朱判 通用三ヶ年限 四〇四二ろ 此札ヲ以テ諸上納二相用ヒ不苦
者也 青印 裏
画中の書き込み
九月廿四日戦死 桐野利秋
人吉ニテ戦死ス 児玉八ノ進
中根米七
九月廿四日戦死 貴嶌清
延岡二戦死 永山矢一郎
三月廿二日戦死 篠原国幹
九月廿四日戦死 別府新助
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西郷札とはウィキペデアによると薩軍の軍費調達のため独自に発行された通貨で、1877年に十円(淡黄色)・五円(鼠色)・一円(浅黄)・五十銭(淡黄)・二十銭(黄色)・十銭(藍色)の六種が発行された。発行当初から信用性が少なかった西郷札は、西郷軍の敗北とともに価値を全く失い、明治政府に没収された後は廃棄処分にされたため、現存している物は少ない。(西郷札:ウィキペディア日本語版2013年4月24日 (水) 09:24 UTCの版を元に構成)
この錦絵の中には西郷札の図版と特徴が刷り込んであるが、大きさや文字、判など、詳細かつ正確であるので、錦絵制作者は実際に西郷札の現物を手に入れていたのだろう。記事中に「十四万円ヲ流通せし」とあり、その規模をうかがわせる。
貨幣博物館の記載では明治10年6月発行の錦絵とあるが、これは西郷札の発行日の事である。記事中に桐野や別府の死亡が9月24日と正確に記してあることから、西南戦争終結後にいろいろな情報を集約してからの製作であることは間違いない。
鹿児島市立美術館他のデジタルアーカイブ鹿児島デジタルミュージアムで西郷札の実物とレプリカを見る事ができる。こちらからどうぞ。
また、貨幣博物館のパンフレットでは
「明治10(1877)年西南戦争の際、金融業者が西郷軍の要請を受けて戦費調達のための紙幣(承恵社札)を発行し、のちに西郷軍も宮崎で自ら紙幣(軍務所札)を発行した。」
政府側でも「戦費調達のため政府紙幣や国立銀行紙幣が増発されたことなどから、激しいインフレが発生した。このインフレは厳しい財政緊縮と紙幣の回収整理により収束されたが、その過程で兌換銀行券の一元的な発行によって紙幣の乱発を回避し、通貨価値の安定を図る事の必要性が認識され、明治15(1882)年中央銀行としての日本銀行が設立された。」とあり、西南戦争が、日本銀行設立のきっかけになった事を示している。
(パンフレット 日本銀行金融研究所 新版貨幣博物館66ページ より抜粋 このページには西郷札の写真の掲載もあります。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/collection/tenjizuroku/book/index.html?highlightwords=%E8%A5%BF%E9%83%B7%E6%9C%AD#page=67 )