u001〔鹿児島戦争記 野津大佐軍旗奪還之図〕国会図書館による仮題
2017/08/12国会図書館関西分館にて以下を確認
応需 大蘇芳年
明治十年三月廿日御届
画工 月岡米治郎 南金六丁十四番地
出板 大倉孫兵衞 日本橋通一丁目十九番地
左図に記事 末尾に応需 卍樓主人記
右図:村田三助、児玉八之進、高城十二、野津大佐、永山矢一郎、淺井真之進、河野四郎、中島武彦
中図:福原大佐、岡本中佐、野津少将、松永清之氶
左図:三好少将、児玉中佐、三浦少将、大山少将、記事
忠孝者人倫之所主也 忠孝は人倫の主とする所なり
文武者男夫之所以守也 文武は男夫の守る所なり
好謀而致事也見義而勇有也 謀を好んで事を致すなり義を見て勇有るなり
僉是忠臣義士之道也と當れる哉 みなこれ忠臣義士の道なりと当たれるかな
官兵反する哉
薩兵茲に明治十年第二月一日鹿兒島縣下の士族疎暴輩(そぼうはい)二千余名同國磯(いそ)の弾薬製造所へ俄に押寄せ機械弾薬数千匣(すうせんはこ)掠奪なすに始り河村林両君の乗たる官船を奪んとし巡査数十人を縛し無根の偽名を以て名義を設け兵器を携帯(たづさへ)熊本縣下に亂入し官兵に抗敵しその兇威を逞しくせんとなすにより二月十九日を以て征討の令を發し有栖川二品親王をもつて總督に任ぜられ海陸軍警視の三兵合して二萬五千余人筑州南の關(せき)に本営を置て山鹿田原木の葉吉次越の四道より押寄せ官軍日毎に進撃し就中三月三日より四日の連戦勝に乗じて高橋に至り過てを賊のために奪はれたりしが野津大佐遙に此体を見て真地闇に(まっしぐらに)只一騎敵中へ馳いり遮る敵を馬蹄にうけ見る見る四五人斬ておとし難なく籏を採かへし静々として味方の陣へ引返されし実に(げに)目覚しきはたらきなりと敵も味方も感じあへり
応需 卍樓主人 記
2コマ目:松永清之凾・福原大佐・岡本中佐・野津少将
3コマ目:三好少将・児玉中佐・三浦少将・大山少将