S021皇朝高名鏡No.2
◯板 大倉孫兵衛 第一大區六小區通一丁目十九番地
画工 早川徳之助 第四大區一小區小川丁十二番地
大塔宮 有栖川宮
静岡県立中央図書館での分類は
請求記号 | K915-108-052-010 |
---|---|
画題(題名) | 皇朝高名鏡No.2 |
絵師(画工名) | 早川松山:早川徳之助 |
版元 | 大倉孫兵衛 |
出版年 | (明治10年?)(1877) |
員数 | 1枚 |
版型 | 大判 |
彩色 | 錦絵 |
資料名 | 上村翁旧蔵浮世絵集(52) |
カテゴリ |
/浮世絵/51集~60集/52集-風景・風俗(2) |
このページの画像は静岡県立中央図書館のデジタルデータを利用して構成している。また、データに関しては東京大学史料編纂所錦絵データベースを参考にした。
画像をクリックすれば拡大画像をご覧頂けます。
細部を見るにはこちらからどうぞ。別画面が開きます。
少し時間がかかります。
もちろん、有栖川宮は西南戦争における官軍の征討総督である。そこに背後から見守るように甲冑姿の大塔宮が控えている。大塔宮とは何者か、そして何故そこにいるのか。
大塔宮(おおとうのみや )=護良親王(もりながしんのう)は建武中興に功のあった、後醍醐天皇の皇子であり、勤王のシンボルとして明治天皇が顕彰した人物である。大塔宮を祀るために創られた神社=鎌倉宮の由緒書きがその生涯をわかりやすく説明しているので、以下引用する。
護良親王(もりながしんのう)は延慶(えんぎょう)元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になりました。6歳の時に京都の三千院にお入りになりますが、11歳で比叡山延暦寺に入室し、尊雲法親王と呼ばれ、天台座主となられます。当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇は国家の荒廃を憂えられ、親王と共に元弘元年(1331年)6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈でした。しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐に配流となります。親王は還俗して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけました。この間にも親王の討幕を促した令旨に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利尊氏、赤松則村らが六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。後醍醐天皇(は京都に還御され、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となられます。しかし尊氏は征夷大将軍を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めます。ところが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、鎌倉
東光寺の土牢に幽閉されます。建武元年(1334年)の11月15日の事です。建武2年(1335年)7月23日 残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行の軍に破れた尊氏の弟、足利直義は逃れる際に、家臣 淵辺義博へ親王暗殺を命じました。義博の凶刃に対して、親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事も出きず、御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨じられました。
明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮(かまくらぐう)」と名づけられました。
鎌倉宮由緒書きよりhttp://www.kamakuraguu.jp/about.html
つまり、有栖川宮も大塔宮も天皇の軍隊の最高司令官であった。名高い2人を並べて顕彰しようという目的で描かれた訳である。
大塔宮が登場する早川松山の作品は他にもあり、その一部は大英博物館のコレクションで観ることができる。残念ながら、右図が欠落しているためタイトルは不明である。こちらからどうぞ。