サイト内検索

What's New!

進斎年光 しんさいとしみつ 

 

PC001賊魁ノ首級實検之圖 

PC007賊魁ノ首級實撿之圖

u009西国征討新誌 インターネット非公開

u010〔西国記聞〕 インターネット非公開

九連城附近ニ清兵ヲ激破ス(日清戦争錦絵)

RST008うきよはんじょう穴さがし

 

 

生没年不詳

 

 明治時代の浮世絵師。月岡芳年の門人。本名は古林栄成。大月、年参、年光、進斎、日不見岡、星湖と号す。明治11年(1878年)には猿楽町に住んでいた。前年の明治10年(1877年)頃から主に西南戦争に取材した戦争絵や、風俗画などを描き始め、日露戦争の頃まで作品がみられる。明治11年からは大月年光と号し、また、明治13年(1880年)から年参と号している。

 

作品

「西国征討新誌」 大錦3枚続 明治10年(1877年) 国立国会図書館所蔵

「うきよはんじよう穴さがし」 大錦3枚続

「元治夢物語」 大錦3枚続 明治11年(1878年)

「百花叡覧」 大錦3枚続 明治11年(1878年) 大月年光落款

「九月二十日号外 鴨緑江沖之大海戦」 大錦3枚続 明治27年(1894年)

「日清九連城激戦船橋之図」 大錦3枚続 明治27年(1894年)

「大孤山沖海洋島日本海軍清艦激沈」 大錦3枚続 明治27年(1894年)

「北京附近北倉激戦図」 大錦3枚続 明治33年(1900年)

「マカロフ中将奮死ノ図」 大錦3枚続 明治37年(1904年) 「星湖」印あり

 

進斎年光 ウィキペディア日本語版 2011年11月10日 (木) 06:09 UTCの版

http://ja.wikipedia.org/wiki/進斎年光

 

『浮世絵師便覧』p227(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
  〝栄成 

   小林氏、◯明治〟 

「進斎」 或いは 「年光」 は3人いた?

研究が進んだのかウィキペディアの項目がどんどん更新されていて、このページも放置するわけにもいかず、このページ全体の情報が古いことをまず、お知らせしておく。本来なら以下のウィキペディア情報を参考に3人の絵師としてリスト化するべきであるが、それはおいおいやっていくこととする。2024/06/07記

 

 

 

進斎 年光(しんさい としみつ)は、月岡芳年門下の浮世絵師に対する通称である。明治期に活動した複数の人物が称せられたが、進斎年光と号した人物は存在しない。以下に進斎年光と呼称された人物を挙げる。

小林年参

姓は小林または古林、名は栄成。現在の三重県出身の士族で、上京して芳年に入門する。亭斎、年参、進斎、日不見岡等と号す。1874年頃から芳年の補佐として名が記され、1886年頃まで浮世絵や挿絵が見られる。また、絵師としての活動に留まらず書籍や図版の編集・出版者としても活動した。1898年5月に建立された月岡芳年翁之碑には芳年社中故門人として小林年参の名が有る。

大月年光

芳年門下の東京の人物とされる。1877・78年頃に西南戦争の錦絵を2、3種描いたとの記述がある。また、1878年には「百花叡覧」(大判3枚続)を大月年光名義で発表している。月岡芳年翁之碑には芳年社中故門人として年光の名が有る。

福島年光

東京の人、星湖と号す。地方を旅行後、1893・94年頃に帰京、1894年10月には京橋区水谷町で暮らす。松野米次郎の後援を受けて日清戦争期から日露戦争期にかけて戦争絵や「千代田日報」の挿絵を描くが、いざこざを起こして出奔し所在不明となったという。月岡芳年翁之碑には芳年門人として年光の名が有る。

 

Wikipedia 進斎年光 の項

https://ja.wikipedia.org/wiki/進斎年光

最終更新 2019年7月25日 (木) 20:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)

進斎年光に関する考察

 進斎年光は明治時代の浮世絵師であるが、その来歴は不明な部分が多い。数少ない作品から見ていくと明治時代の大きな戦争とともに需要が増した「戦争錦絵」に30年近く関わった可能性がある絵師である。

 

 年光が文献に登場する時、月岡芳年の弟子として紹介されるのが通常である。例えば明治31年6月に刊行された『浮世絵備考』によると年光は大月年光の名前で「以上22人大蘇芳年の門弟」と一覧の中に紹介されている。春齋年昌、亭齋年參、南齋年忠、筒井年峰などに続き5番目に登場しているが他の十五人は名前だけであるし、その他にも号と名前だけの絵師が多い中、名字が記されるのは筒井年峰と大月年光の二人だけである。梧齋年英が「右田氏、通称寅彦、芳年の門弟にて、新聞の挿絵を画けり。」とあるのと比べると物足りないが、名字がついているのはそれだけ存在感が強い。ただし、本名までは追いきれない。

 

 一方、向島百花園にある、月岡芳年顕彰碑の裏面に記載された弟子の一覧の中では、一番最後にその名前が「年光」と記されている。一番年若い弟子であったのか、或いはこの石碑を建立するときの取りまとめ役であったのかは不明である。注目すべきは、芳年社中故門人部の一覧の中におなじ「年光」の名前があるということである。石碑が建立された明治三十一年五月にすでに死去していた年光と生存していた年光は同一人物ではありえないので、二人の年光を振り分けていく必要があるということになる。

 

 さて、ここで、進斎或いは年光のサインが施された作品を世界各国の美術館・博物館が公開しているデジタル画像の中に探していくと21点の作品を確認できる。この21作品をどちらかの年光の作品として確定することは難しい作業になるが、幸い明治時代の御届は絵師の住所を記したものも多くその情報が付帯していれば、特定の補強材料として使うことが出来るし、また、当然ながら錦絵はチームワークであり版元を始めとして、彫師、摺師、または売りさばきの書店など関係先が共通していればこれもまた、特定の補強材料となる。さらに落款の書体も参考になるだろう。また、年光は、かなり独特の身体表現をする絵師である。一例を上げるならば、「日本大捷九連城激戰圖」に見られるアクロバットのようなねじれた身体表現は独自のものであり、この傾向は日清戦争錦絵では特に顕著である。この傾向が、編年的に変化してきたものか細部を検証して明らかにすれば、これもまた絵師特定への補強材料となるだろう。これらを駆使して30年に渡り戦争錦絵の制作グループの中心として明治民衆の世論をリードしたおそらく唯一の絵師であろう年光を歴史の闇から引きずり出すことに成功すれば、西南戦争・日清戦争・日露戦争と近代化にともなって激しく変化していく戦いの姿に向き合い一喜一憂する明治の浮世絵界をあぶり出すことが出来るだろう。


1 日本国内への配送に適用されます。その他の国についてはこちらをご参照ください
概要 | 配送/支払い条件 | プライバシーポリシー | サイトマップ
Ⓒ 2011 西南戦争錦絵美術館 All Right Reserved