B019俗称西郷星之図
ぞくにいふ さいがうぼしのづ
梅堂 国政 圖
大英博物館 蔵
十年八月廿三日御届
出板人 山本平吉 新葭丁二番地
画工 竹内栄久 長谷川丁廿四番地
鹿児島各縣 西南珍聞 第七号 俗称西郷星之図
大阪日報に此節毎夜一時頃より巽の方に現ハれる赫色の星を望遠鏡で能見ると西郷隆盛が陸軍大将の官服を着て居る体に見ゆるとて涼みがてらでハあらうけれとも此処彼方の物干で夜を更すも有るとか此妄説日々盛んなりと雖も是ハ火星にして異なる星にあらず火星ハ南方に當りて輝く木星また北方に薄くかがやける土星などとおなじく常に光明を発する故に一目見て遊星にして恒星にあらぬ事なりとぞ此遊星時として光輝をますハ年期きたりて其(その)運行線道(めぐるみち)の太陽に近づきたるにて火星ハ地球にも又近寄ることある故にひかりも増しそのかたち大きくも見ゆるなりと東京繪入新聞に出たるを茲に畧(りゃく)して記すものなり
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テーマ別作品リストの中に以前、ウィキペディアでの画像をみて西郷星に関して書いたものがあるので再掲載する。
『西郷さんが如何に庶民に慕われていたかを示すもう一つの錦絵が西郷星をあつかった画である。ウィキペディア日本語版によると「西郷星(さいごうぼし)とは、明治10年 (1877年)頃、西南戦争による世の混乱の中、西郷隆盛の死を悼む人々の間で流布した噂である。」「この頃、火星の大接近があり、最接近時の9月3日には距離5630万km、光度-2.5等あまりにまで輝いていた。当時の庶民はこれが火星である事は知らず、「急に現われた異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした西郷隆盛の姿が見えた」という噂が流れ、西郷星と呼ばれて大騒ぎになった。やがてこれに便乗し、西郷星を描いた錦絵が何種類も売り出されて人気を博したと、エドワード・モースの当時の日記にも記されている。また、この時に火星の近くに位置していた土星も、桐野利秋に因んで桐野星(きりのぼし)と呼ばれた。」とある。
添えられた梅堂国政の錦絵「鹿児島各縣 西南珍聞」の記事、タイトルは「俗称(多分賊将とかけている)西郷星之図」、を読むと、当時の庶民がただ頭から「西郷星」という星を信じ込んでいた訳ではない事が見て取れる。面白いのが、大阪日報が夜に物干に上がって火星を観察する都市の市民の姿を伝えているのに対し、東京繪入新聞は火星大接近の科学的な解説をのせている事。その2つのソースをあわせてこんな錦絵が作られているのは、まったく商魂逞しいといっていいのかもしれない。』
比べてびっくり、なんとウィキペディア版の方は『錦絵 幕末明治の歴史8 西南戦争』という本からの画像であった。一方だけ見ているときにはそんな事すら気づかなかった。
多分、書籍=印刷物からの再録であるウィキペディア版の方は、四隅がトリミングされ大事な出版情報が全く読み取れなくなっている上、色遣いもコントラストがきつくけばけばしくなっている。遠景の大阪の町並みなどは細部がつぶれて見えなくなってしまっている。錦絵の刷りの柔らかさが全く失われているといえよう。
同時代の、同じ版からの異版を比較していく事が目的なので、これに関してはここまで。