025鹿児島記聞 吉次越の戦篠原討死之談
(鹿児嶌紀聞 吉次越激戦篠原討死之談)
かごしまきぶん きちじごへのげきせんしのはらうちじにのだん
御届明治十年 月 日
板元 福田熊次郎 長谷川町廿番地
画工 山崎徳三郎 浅草駒形丁丗四番地
右図:西郷隆盛・村田新八・中島武彦・高城十二
中図:旧陸軍少将篠原国幹・村田三介
暴徒の先陣篠原ハ其手の別将西郷小平肥後助右エ門の両人に熊本城を囲ませて其身ハ植木向坂木留辺へ進撃し吉次越迄到に(いたりしに)官軍爰(ここ)に待受て大小銃を打かけうちかけ勢ひ猛く突出なすにぞ賊兵進むことを得ず隊長國幹之を見て陣頭に駒を馳せ手先をまわして働くをりから銃丸飛で篠原が胸元を打ぬきけるとぞ馬より落て死しにける此際(このとき)西郷隆盛ハ兵を卒して助けきたり味方を纏めて引揚たり此戦ひに名を得たる村田三介も重傷を負ひ暴徒の死傷しとぞ
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異版の画像が鹿児島県立図書館の貴重資料デジタルライブラリーで公開されている。
国会図書館のタイトル表記は正確ではない。画中には「鹿児嶌紀聞吉次越激戦篠原討死之談」とあり、正しくは記聞→紀聞である。
西郷小兵衛は2月27日高瀬方面で戦死している。熊本城の攻城戦は最も初期の頃だけでは無いだろうか。
村田三介は山鹿方面で戦い、戦死している。吉次越方面にいたのは、村田新八である。
西郷隆盛は厳重に護衛されこの頃は川尻の本営にいたはずで前線には出ていない。
篠原はフランス式の制服と黒ラシャの外套をまとい、翻る裏地の赤が格好の的になったという。福井 俊介氏のサイト「西南戦争の史跡巡り」の中の「あの外套を打て」に詳しく紹介されている。
http://www.infobears.ne.jp/athome/fukusuke291/zseinan.htm